| 年月日 | 内容 | 備考 | 写真・動画・リンク |
|---|---|---|---|
| 1945-3-20-0 | 空襲の激化による輸送対策実施、急行列車は東京・下関間1・2列車(所要時間24時間30分)を除き全廃 | ||
| 1945-0-0-0 | この頃人吉機関区にD50231号が配置されていた | 配置年月日、転出年月日とも不詳 人吉機関区史上唯一のD50形式 | |
| 1945-4-1-0 | 米軍沖縄へ上陸 | ||
| 1945-4-4-0 | 人吉・八代間で6760形式を運転(7日にも運転、区間不明) | 戦争末期、人吉機関区機関車の運用不足のためと思われるが詳細不明 | |
| 1945-4-6-0 | 人吉・吉松間で9600形式を運転(10日にも運転)、また12日まで人吉・熊本間でC11形式運転 | また7日~10日と12日~14日に人吉・八代間でも9600形式を運転、同上理由と思われるが不明 | |
| 1945-5-1-0 | 大空襲下における陸上輸送力確保要綱に基づき第1次旅客列車削減 | ||
| 1945-5-14-0 | 米軍機18機が人吉に2回目の空襲を行い機銃掃射(6月14日には海軍の零戦1機が米軍機11機と空中戦を行うも球磨郡西村山中に墜落し戦死、7月31日には米軍機1機が上村麓に焼夷弾と爆弾を落とす) | ||
| 1945-6-5-0 | 人吉・熊本間でC51形式を運転(この後15日~30日にも人吉・八代間で運転、7月1日と3日~7日にも人吉・熊本間で運転) | 戦争末期、人吉機関区機関車の運用不足のためと思われるが詳細不明 | |
| 1945-6-10-0 | 第2次旅客列車削減、長距離直通列車は朝夕の通勤時間帯を残し昼間閑散時打ち切られ、間引き運転となる | ||
| 1945-6-20-0 | 戦局さらに悪化、関釜と博釜両航路の運行不能 | ||
| 0-0-0-0 | 青函航路が艦載機攻撃を受け10隻沈没、2隻損傷、翌日さらに1隻沈没し、同航路は壊滅状態となる | ||
| 1945-7-27-0 | 大隅横川駅が米軍機の機銃掃射を受ける(建設計画時に防衛上海岸線より山中としたのが功を奏し肥薩線は大きな被害を受けず終戦へと進む) | ||
| 1945-8-6-0 | 広島に原子爆弾投下される | ||
| 1945-8-9-0 | 長崎に原子爆弾投下される | ||
| 1945-8-15-0 | 日本無条件降伏で第2次世界大戦終結(人吉出身高木惣吉海軍少将の終戦工作が各方面からの妨害をかいくぐり終結したときでもある) | ||
| 1945-8-20-0 | 真幸・矢岳間で上り列車を牽引していた4111号の蒸気が上がらず停車、石炭も少なくなり女性車掌に非常ブレーキの取扱方法を教えて切り離した車輌を託し、機関車のみで矢岳を目指し出発した その頃矢岳では到着しないこの列車に事故が発生したと駅長が思い、ここで交換のため到着していた下り貨物列車のD51(番号不明)を解放し、指導員をテンダーのステップに乗せ徐行運転で救援に向かわせた しかし、相手事情を知らない両機は矢岳第1トンネル内で衝突、D51テンダーがタンク機関車4111号の運転台にめり込み、2名死亡、1名負傷の事故が発生した | この頃急勾配でトンネルの多かった人吉・吉松間では運転台の煤煙対策として4110形式もD51形式も後ろ向き運転を原則としていた この日人吉・矢岳間にC11形式が救援か偵察のため単機運転された この矢岳での機関車同士の衝突事故といい、2日後の第2山神トンネルの復員列車事故といい、終戦直後の混乱が肥薩線でも見られている 4111号はこの後人吉機関区に収容され構内に置かれていたが、1947年(昭和22年)6月25日廃車、鹿児島まで回送不能のため1949年(昭和24年)1月22日構内で解体された(D51テンダーも構内で解体されている) | |
| 1945-8-22-0 | 吉松・真幸間の第2山神トンネル(長さ617.6m、吉松側からは1000分の25上り勾配)で、機関室にまで乗るほどの超満員の復員兵を乗せた806列車(国鉄事故記録では現車12両)が立ち往生、乗務員の判断ですぐ退行したが煙と熱で列車から飛び降りトンネル内を逃げていた復員兵達を轢いて死者56名、重軽傷20名の大事故となる | 終戦直後の混乱期、整備不良の機関車(本務機は人吉のD51または吉松のハチロク・補機は吉松の台湾向けD5130号を急遽連結したとも言われるが不明)や鹿屋、知覧、都城などから全国各地の故郷を目指す復員兵で定員オーバー、トンネルの構造上の問題などが重なり悲劇が発生、死者は49人(国鉄事故記録)、56人(慰霊碑碑文)など諸説ある | |
| 1945-9-11-0 | D50231号が31日まで人吉・吉松間運転 | この頃人吉機関区にD50形式が配置されていたことが分かる記録 | |
| 1945-11-20-0 | 時刻改正、川線人吉発着は上り・下りとも8本(この内約半数が山線も走る列車だったと思われる)、湯前線は4往復 | 旅客列車の第1次復活 しかし石炭不足を理由に何回か列車の削減が行われる | |
| 1945-12-1-0 | 石炭不足の中、旧海軍の志免炭鉱を鉄道省に移管 志免炭鉱の労働者不足のため鉄道員も人吉など各地から派遣 石炭不足のため旅客、貨物とも戦時中最低の1945年(昭和20年)6月よりさらに削減し輸送力低下 | ||
| 0-0-0-0 | (翌年4月16日~5月31日湯前線で貨車のみ牽引した記録が残っているが、これは石炭不足のため重たい客車を牽引するのを避けて、貨車を客車の代用にしたのではないかと思われる) | ||
| 1945-12-0-0 | 省営自動車(後の国鉄バス)米良線湯前・妻間78km開通 | ||
| 1946-1-31-0 | 連合軍専用列車運転開始 | ||
| 1946-2-15-0 | 免田(他に三里木、滝水、袋)に食糧増産場が設置される | 熊本管理部食糧増産支部設置 | |
| 1946-2-25-0 | 旅客列車の第2次復活 | ||
| 1946-6-1-0 | 人吉・熊本間で6760形式を運転 | 戦後復興期、人吉機関区機関車の運用不足のためと思われるが詳細不明 | |
| 1946-6-12-0 | 人吉・一勝地間でC11形式試運転 | 詳細不明 | |
| 1946-10-1-0 | 熊本機関区八代機関支区設置 | ||
| 1946-10-0-0 | 人吉・熊本間でC12形式を運転 | 戦後復興期、人吉機関区機関車の運用不足のためと思われるが詳細不明 | |
| 1946-11-1-0 | 第1回国民体育大会開催 |
| 年月日 | 内容 | 備考 | 写真・動画・リンク |
|---|---|---|---|
| 1945-3-20-0 | 空襲の激化による輸送対策実施、急行列車は東京・下関間1・2列車(所要時間24時間30分)を除き全廃 | ||
| 1945-0-0-0 | この頃人吉機関区にD50231号が配置されていた | 配置年月日、転出年月日とも不詳 人吉機関区史上唯一のD50形式 | |
| 1945-4-1-0 | 米軍沖縄へ上陸 | ||
| 1945-4-4-0 | 人吉・八代間で6760形式を運転(7日にも運転、区間不明) | 戦争末期、人吉機関区機関車の運用不足のためと思われるが詳細不明 | |
| 1945-4-6-0 | 人吉・吉松間で9600形式を運転(10日にも運転)、また12日まで人吉・熊本間でC11形式運転 | また7日~10日と12日~14日に人吉・八代間でも9600形式を運転、同上理由と思われるが不明 | |
| 1945-5-1-0 | 大空襲下における陸上輸送力確保要綱に基づき第1次旅客列車削減 | ||
| 1945-5-14-0 | 米軍機18機が人吉に2回目の空襲を行い機銃掃射(6月14日には海軍の零戦1機が米軍機11機と空中戦を行うも球磨郡西村山中に墜落し戦死、7月31日には米軍機1機が上村麓に焼夷弾と爆弾を落とす) | ||
| 1945-6-5-0 | 人吉・熊本間でC51形式を運転(この後15日~30日にも人吉・八代間で運転、7月1日と3日~7日にも人吉・熊本間で運転) | 戦争末期、人吉機関区機関車の運用不足のためと思われるが詳細不明 | |
| 1945-6-10-0 | 第2次旅客列車削減、長距離直通列車は朝夕の通勤時間帯を残し昼間閑散時打ち切られ、間引き運転となる | ||
| 1945-6-20-0 | 戦局さらに悪化、関釜と博釜両航路の運行不能 | ||
| 0-0-0-0 | 青函航路が艦載機攻撃を受け10隻沈没、2隻損傷、翌日さらに1隻沈没し、同航路は壊滅状態となる | ||
| 1945-7-27-0 | 大隅横川駅が米軍機の機銃掃射を受ける(建設計画時に防衛上海岸線より山中としたのが功を奏し肥薩線は大きな被害を受けず終戦へと進む) | ||
| 1945-8-6-0 | 広島に原子爆弾投下される | ||
| 1945-8-9-0 | 長崎に原子爆弾投下される | ||
| 1945-8-15-0 | 日本無条件降伏で第2次世界大戦終結(人吉出身高木惣吉海軍少将の終戦工作が各方面からの妨害をかいくぐり終結したときでもある) | ||
| 1945-8-20-0 | 真幸・矢岳間で上り列車を牽引していた4111号の蒸気が上がらず停車、石炭も少なくなり女性車掌に非常ブレーキの取扱方法を教えて切り離した車輌を託し、機関車のみで矢岳を目指し出発した その頃矢岳では到着しないこの列車に事故が発生したと駅長が思い、ここで交換のため到着していた下り貨物列車のD51(番号不明)を解放し、指導員をテンダーのステップに乗せ徐行運転で救援に向かわせた しかし、相手事情を知らない両機は矢岳第1トンネル内で衝突、D51テンダーがタンク機関車4111号の運転台にめり込み、2名死亡、1名負傷の事故が発生した | この頃急勾配でトンネルの多かった人吉・吉松間では運転台の煤煙対策として4110形式もD51形式も後ろ向き運転を原則としていた この日人吉・矢岳間にC11形式が救援か偵察のため単機運転された この矢岳での機関車同士の衝突事故といい、2日後の第2山神トンネルの復員列車事故といい、終戦直後の混乱が肥薩線でも見られている 4111号はこの後人吉機関区に収容され構内に置かれていたが、1947年(昭和22年)6月25日廃車、鹿児島まで回送不能のため1949年(昭和24年)1月22日構内で解体された(D51テンダーも構内で解体されている) | |
| 1945-8-22-0 | 吉松・真幸間の第2山神トンネル(長さ617.6m、吉松側からは1000分の25上り勾配)で、機関室にまで乗るほどの超満員の復員兵を乗せた806列車(国鉄事故記録では現車12両)が立ち往生、乗務員の判断ですぐ退行したが煙と熱で列車から飛び降りトンネル内を逃げていた復員兵達を轢いて死者56名、重軽傷20名の大事故となる | 終戦直後の混乱期、整備不良の機関車(本務機は人吉のD51または吉松のハチロク・補機は吉松の台湾向けD5130号を急遽連結したとも言われるが不明)や鹿屋、知覧、都城などから全国各地の故郷を目指す復員兵で定員オーバー、トンネルの構造上の問題などが重なり悲劇が発生、死者は49人(国鉄事故記録)、56人(慰霊碑碑文)など諸説ある | |
| 1945-9-11-0 | D50231号が31日まで人吉・吉松間運転 | この頃人吉機関区にD50形式が配置されていたことが分かる記録 | |
| 1945-11-20-0 | 時刻改正、川線人吉発着は上り・下りとも8本(この内約半数が山線も走る列車だったと思われる)、湯前線は4往復 | 旅客列車の第1次復活 しかし石炭不足を理由に何回か列車の削減が行われる | |
| 1945-12-1-0 | 石炭不足の中、旧海軍の志免炭鉱を鉄道省に移管 志免炭鉱の労働者不足のため鉄道員も人吉など各地から派遣 石炭不足のため旅客、貨物とも戦時中最低の1945年(昭和20年)6月よりさらに削減し輸送力低下 | ||
| 0-0-0-0 | (翌年4月16日~5月31日湯前線で貨車のみ牽引した記録が残っているが、これは石炭不足のため重たい客車を牽引するのを避けて、貨車を客車の代用にしたのではないかと思われる) | ||
| 1945-12-0-0 | 省営自動車(後の国鉄バス)米良線湯前・妻間78km開通 | ||
| 1946-1-31-0 | 連合軍専用列車運転開始 | ||
| 1946-2-15-0 | 免田(他に三里木、滝水、袋)に食糧増産場が設置される | 熊本管理部食糧増産支部設置 | |
| 1946-2-25-0 | 旅客列車の第2次復活 | ||
| 1946-6-1-0 | 人吉・熊本間で6760形式を運転 | 戦後復興期、人吉機関区機関車の運用不足のためと思われるが詳細不明 | |
| 1946-6-12-0 | 人吉・一勝地間でC11形式試運転 | 詳細不明 | |
| 1946-10-1-0 | 熊本機関区八代機関支区設置 | ||
| 1946-10-0-0 | 人吉・熊本間でC12形式を運転 | 戦後復興期、人吉機関区機関車の運用不足のためと思われるが詳細不明 | |
| 1946-11-1-0 | 第1回国民体育大会開催 |